万法気学について

私たち人は、誰しも幸せの実現や向上を願っている。貧困や困窮、不自由や苦悩から離れたい。出来れば努力や忍耐を実らせたい。
人夫々に、願いや望みがある。人がおおきければ、単なる欲望ではなく、未来に対する「偉大な祈り」となるだろう。
釈尊は、人生を切り替える最大のカギを『縁』と捉えた。つまり物事や人との関わり方が大事なのだ。関係性が良ければ良いほど喜びも成果も得られる。
少しづつ良くなっている実感がしてくる。前と違ってくる、これを『起』と言って、
『縁起』という。その成果を『起』といって『縁起』という言葉がうまれた。
つまり、人が生きていくにはあらゆる関係性を良くしていく事をいっている。
鎌倉時代、永平寺を開いた道元禅師は、著書「正法眼蔵」のなかにこのような文書を残している。
原文「仏道をならうといふは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。・・・・・」
何を述べているのか。要は「人生で大事な道を知るには、自分の考えや拘り、生き方も、ああだのこうだの、忘れてしまえ、(万法)あらゆることに(証せらるる)教えられている事に気づけ。
だから、俺の立場とか、時期がどうとか、家族の理解がとか、向いているとか、いないとか、そんなもの全部引っぺがして、脱ぎ捨ててしまえ。」と言っている。
できない人間の出来ない理由は、人のせいにしたり、条件のせいにする。
出来ないのは自分ではなく、諸条件のせいにしてしまう。
「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」といって、言い訳、言い逃れを創り出すな。
なぜ人生は上手くいかないのだろう。「自己のその想いを、きっとあの人がああだからに違いない。」それは、そこに自分の受け止め方を置いているだけであって、それを「他己」という。その人は存在していない、そこには他人に自分を受け止め方を投影しているのではないか。
『自己の身心、他己の身心をして脱落せしむるなり。』実に驚く、こんな言葉の使い方があったのかと。
若いころには私もこんな気持ちの間違いがあった。しかし、多くの尊敬する先輩や、自分より上を行く方々に触れて、少しでも良い真似をし、ご指導ご助言を実践していく内に、いつ知れず、追いつき追い越してきていることに気づかされる。 つまり、『全てに教えられていた。』のだと。
中には偉大な方や追いつけない巨人も居られる。恋い焦がれるような人格者もいる。

しかし、それ以外にも、あまり気に入らない人、嫌いな人、苦手な人もいる。
そして多くの若い人もいる。
そのすべての人々が、自分にとって『師』として学ぶべき人、教えてくれている人ではないだろうか。さらに色々な出来事も、身の回りの条件も『人生の師』であり、人生の課題も、不具合も『何かを教えてくださっている。』と受け止められないだろうか。
だから「万法に証せらるるなり」がズシンと収まってくる。
なお尚、ご縁のお蔭が身に染みてくる。
辱めを受けたり、疎外されたり、無視され、受け入れて貰えなかったり、だからって落ち込んだり、グレたり、悲観したりすることはない。
「何かを教えてくれている。」と思えば、心も軽くなり左右されない腹も出来てくる。超えられると自分を信ずることが、成長につながる。そうして知らないうちにその人達(他己)を超えていく。
いや、その場で即座に「有難うございました。」と言えたなら、とっくに超えて(脱落)いるといえる。釈尊の言う『無我』を明示しているに違いない。
『脱落』はあまりにも有名な言葉で、博識の諸先生方には別の解釈がおありの事と存じますが、私が師匠に戴いた名が「万法一顯」でありますので、大事にしているところです。 道元禅師の修行の決意として評価は高い。私は、スタートラインだと考えている。いつもいつも大事なので、ここがゴールとは思えない。

仏教のその発祥は、紀元前五世紀、今から2500年程前にヒンズー教から生れてきた。キリスト教は2000年前にユダヤ教から生れた、共に宗教である。
人類の歴史は、狩猟採集から農耕牧畜に代わっていく時代、偉大な力に縋り、その力を神や仏とした。太陽や水と風など偉大な存在を神・仏・如来、と認識した。
中国では、神や仏と捉えず『気』と捉えた。「天の気・地の気・人の気」と捉え論理構成をした。それは、5000年前にさかのぼる。
伏義から始まり、文王、孔子、によって整えられ、易や儒教、道教、陽明学、朱子学として拡大していった。
その他にも、百家というように多くの思想に影響を与えたに違いない。
中国漢の時代、大艦慧能という禅の巨人は『本来無一物、何れの処にか塵挨有らん。』といい。
「幸せになる。向上する。悟る。マー、何でもいいや。それに条件や時期があんのかネ。そうなれないのは貴方自身が、ああだこうだ、自分で自分が出来ない理屈こねて、マイナス・スパイラルで生きてるだけだろう。」
僅か17歳の修行に入ったばかりの少年が、500人の先輩に突き付けた一句である。
その慧能は、中国の禅の第六祖となり、五家七宗の禅を中国に華開いた、あまりにも高名な「六祖慧能」その人である。
私は幼少のころ、多少の劣等感、わずかながら僻み、貧乏の中で育った。それだけに、両親の愛と人の親切、思いやりとお蔭は身に染みて有難く受け取れた。
やたらに人に会うのが嬉しく。親父の知人。親類の叔父・叔母。近所の人。学校での先生や友達、先輩。めちゃくちゃハシャイデいた。だから苦労や貧乏が辛いと感じた事が無かった。やたらに毎日が楽しい。
今でもその受け止め方は変わらない。そのせいか「いたずら坊主」と誤解をされる事も多い。つまり、縁が嬉しいのである。
しかし、その中で自分の足らざるもの。至らないもの位は判る。それに向かって努力もする。やはり成果はあった。
仏教の修行や学問を知る以前、「縁起」の語を知る前から元々縁起の中で生きてきた様に思う。
だから、やたら嬉しい。凄く幸せを感じている。だから人生は楽しみで満ちている。「感謝と有難うのど真ん中」にいるのだから、「縁ある人にお礼を尽くして生きて行きたい。」と決意している。
孫との付き合いも修行の一つ。家内の諸注意事項も、息子の一言も聞き逃せない。果たせるかどうかは判らないが、お礼をしながら生きとげ、死にきれれば最高の喜びに違いないと考えている。
多くの縁ある人に。感謝・感謝である。
『ウダーナ』(小部経典一、一)に次の文言がある。
「まこと熱意をこめて思惟する聖者に かの万法のあきらかとなれるとき 彼の疑惑はことごとく消え去れり 縁起の法を知れるがゆえなり」

この「万法気学セミナー」は、わたしが私の人生に対して最後の「お礼」をする意味で始めました。恐らく、十五年ぐらいは続けられると思う。
また,その出逢いの『縁』から教えられ学ぶことも多いと思う。それこそが「証」であろうと確信している。尽きることのない修行はいつも目の前にある。と考えている。
平成21年暮れに、親しいお檀家の加藤さんから、村山幸徳先生の「展望と開運」を受け取った。読んで驚いた。とてもたどり着けないレベルの人だと直感した。知識は深く、高く、広い。年が明けて2月に事務所に行った。早速お会いして下さりお食事まで頂戴した。そして先生の元で気学を学び始めた。
私が寺院住職であることを意識してか、最初の講義が「六祖慧能の禅」であった。ときどき最澄、法然、道元、親鸞、日蓮、一休、良寛とでてくる。時折気学、さらに政治、経済、軍事、宗教、教育、心理学、資源、株、産業や税制。
生活に直結するすべてが出てくる。そして、村山先生は、生徒である私を「先生」と呼ぶ。有難いことである。心遣いの深さに感謝している。
もちろん先生も人間なので欠点もおありだと思う。けれどもそれを遥かに超える人間の気高さ、深い知識に敬服し、目標とする姿勢に共鳴する次第だ。
気学は「方位学」に違いない。それはそうだと思う。しかし、占いや鑑定だけの狭い「当たる」とか「当たらない」とか、そんなレベルのものではない。
自分だけラッキーを引き寄せて吉方だけ取りたがる低俗なものではない事を知った。
勿論、人様の幸せのためにそれも技術として必要だが、「気学の奥底」には、釈尊のいう「縁起」が見える。「八正道の理論」が潜んでいるように思える。
インドでは釈尊、中国では孔子が同じ紀元前500年の時代に同質の事に気づいたと言えると思う。
村山先生は、自身の運勢学を社会全体の知識から「社会運勢学」と名付けた。

私は、そんな広い知識学問は足りていない。もっと人間の成長・向上を目指して「あらゆる日常の事柄や身近な人々を、自分の合わせ鏡として捉え、人生の師としてマインドを整え、自己の身心を他己に置き換え、つまらない事に捕らわれず、ご縁に学び、感謝を表し幸せを楽しんでいく意味で、『万法気学』と名付けた。
仏法は天から戴く教えではない。師匠が授けて呉れるものでもない。拝んで仏から頂戴するものでもない。あらゆる物事の中から、一つ一つの事柄から自分を発見していくものだと言える。
気学は単なる方位吉方の学問ではない。相性の吉凶を判断するだけでもない。景気判断、恋愛や色恋、ラッキーカラー、そんなことだけに使うものではない。

又、超能力だの、霊感だの、何か怪しいもの、占いのようなものではない。
『天の理・地の理・人の理』を説き、そのトリブレットの関係性に自分の居場所、役割を発見し、命の使命を務めていく事だと言える。
自分を知り居場所を知り、人を受け入れていく、広く大きな人格を育て、人生の使命や役割を弁える学問だと言える。
つまりは「万法に証せらるる」あらゆる事柄、人、現象を理論的具体的に理解し受け入れていく近道を教えてくれる。
万法気学セミナーの生徒さんの中には、「先生、私変わってきました。怒らなくなりました。」「主人の事でイライラしなくなりました。」等の言葉を聞きます。
知らず知らず「禅定」も身について来ています。更に自分を変えるコツも掴めてきます。
滝に打たれたり、棒で叩かれたり、怒鳴られたり、痛い思いなどしなくとも、修行はできるのです。生活も変えられます。『自分を変えていけば・・・』
辛い思いや我を捨てて(脱落)するには、10年の坐禅よりも「気学」はある意味早くて楽しい気がします。
方位や相性ももちろん大切だが、それは初歩だと思う。プロフィシュナル。リーダーを目指す人は、先ず人間性の向上が大事なことに気づいて欲しい。
どの世界でも「長」はいらっしゃる。会社を良くし、団体を良くする。或いは家庭を良くする。子供を良くする。そう望んで願ってそうなるものではない。

少しでも先ず自分が向上しなければダメ。無理だと思うなら、一番下で働いている部下に頭を下げて学んでみよう。子供や孫に「ごめん」奥さんに「有難う」親に「済みません」。そこから修行が始まる。人に物を差し上げて「いつも有難う」、支払いをして「お世話になりました」、よいことをやって「今日は有難う」だんだん修行が出来てくる。
仏教と気学の垣根が無くなってくる。ゆえに「万法気学」と名付けたもう一つの理由がある。

鑑定の世界には、色々な流派があるが、皆同じように、「周囲の人に良くなってもらいたい筈だ。」
大事な家族、愛する人、周りの人、利害関係人。様々だ。
でも、占いや霊感、超能力とは一線を画して、理論で捉えて行きたい。
だから、「当たる」という言葉はいらない。
「人間や物事の関係性を良く受け止める学問」だと捉えて頂きたい。
嫌いな人、憎い人が消えていく。相手方にそんな人はいない。自分の中にいることに気づく筈だ。
それが消え去った時。本当の意味で『無敵』を知ることが出来る。 どうか、家庭で子育てのリーダー、会社や社会、団体や組織のリーダー、政治や教育機関でのプロフィシュナル・リーダーの皆さん、将来の「我が家」、次代の「小田原」、未来の「日本」の為を願って、「自分自身の改革向上」を目指してみては如何でしょうか。
僭越ながら、必ずや良い人間関係のお手伝いをして差し上げる自負が御座います。

以上